善の研究:第二編 実在:第四章 真実在は常に同一の形式を有っている
善の研究:第二編 実在:第四章 真実在は常に同一の形式を有っている
善の研究:第二編 実在:第四章 真実在は常に同一の形式を有っている 上にいったように主客を没したる知情意合一の意識状態が真実在である。我々が独立自全の真実在を想起すれば自らこの形において現われてくる。此かくの如き実在の真景はただ我々がこれを自得すべき者であって、これを反省し分析し言語に表わしうべき者ではなかろう。しかし我々の種々なる差別的知識とはこの実在を反省するに由って起るのであるから、今この唯一実在の成立する形式を考え、如何にしてこれより種々の差別を生ずるかを明あきらかにしようと思う。 真正の実在は芸術の真意の如く互に相伝うることのできない者である。伝えうべき者はただ抽象的空殻である。我々は同一の言語に由って同一の事を理解し居ると思って居るが、その内容は必ず多少異なっている。
独立自全なる真実在の成立する方式を考えて見ると、皆同一の形式に由って成立するのである。即ち次の如き形式に由るのである。先ず全体が含蓄的 implicit に現われる、それよりその内容が分化発展する、而してこの分化発展が終った時実在の全体が実現せられ完成せられるのである。一言にていえば、一つの者が自分自身にて発展完成するのである。この方式は我々の活動的意識作用において最も明に見ることができる。意志について見るに、先ず目的観念なる者があって、これより事情に応じてこれを実現するに適当なる観念が体系的に組織せられ、この組織が完成せられし時行為となり、ここに目的が実現せられ、意志の作用が終結するのである。啻ただに意志作用のみではなく、いわゆる知識作用である思惟想像等について見てもこの通りである。やはり先ず目的観念があってこれより種々の観念聯合を生じ、正当なる観念結合を得た時この作用が完成せらるるのである。
ジェームスが「意識の流」においていったように、凡すべて意識は右の如き形式をなしている。たとえば一文章を意識の上に想起するとせよ、その主語が意識上に現われた時已すでに全文章を暗に含んでいる。但し客語が現われて来る時その内容が発展実現せらるるのである。
意志、思惟、想像等の発達せる意識現象については右の形式は明であるが、知覚、衝動等においては一見直ただちにその全体を実現して、右の過程を踏まないようにも見える。しかし前にいったように、意識はいかなる場合でも決して単純で受動的ではない、能動的で複合せるものである。而しかしてその成立は必ず右の形式に由るのである。主意説のいうように、意志が凡ての意識の原形であるから、凡ての意識はいかに簡単であっても、意志と同一の形式に由って成立するものといわねばならぬ。
衝動および知覚などと意志および思惟などとの別は程度の差であって、種類の差ではない。前者においては無意識である過程が後者においては意識に自らを現わし来るのであるから、我々は後者より推して前者も同一の構造でなければならぬことを知るのである。我々の知覚というのもその発達から考えて見ると、種々なる経験の結果として生じたのである。例えば音楽などを聴いても、始の中は何の感をも与えないのが、段々耳に馴れてくればその中に明瞭なる知覚をうるようになるのである。知覚は一種の思惟といっても差支ない。
次に受動的意識と能動的意識との区別より起る誤解についても一言して置かねばならぬ。能動的意識にては右の形式が明であるが、受動的意識では観念を結合する者は外にあり、観念は単に外界の事情に由りて結合せらるるので、或全き者が内より発展完成するのでないように見える。しかし我々の意識は受動と能動とに峻別することはできぬ。これも畢竟ひっきょう程度の差である。聯想または記憶の如き意識作用も全然聯想の法則というが如き外界の事情より支配せらるるものでない、各人の内面的性質がその主動力である、やはり内より統一的或者が発展すると見ることができる。ただいわゆる能動的意識ではこの統一的或者が観念として明に意識の上に浮んでいるが、受動的意識ではこの者が無意識かまたは一種の感情となって働いているのである。 能動受動の区別、即ち精神が内から働くとか外から働を受けるとかいうことは、思惟に由って精神と物体との独立的存在を仮定し、意識現象は精神と外物との相互の作用より起るものとなすより来るので、純粋経験の事実上における区別ではない。純粋経験の事実上では単に程度の差である。我々が明瞭なる目的観念を有もっている時は能動と思われるのである。
経験学派の主張する所に由ると、我々の意識は凡て外物の作用に由りて発達するものであるという。しかしいかに外物が働くにしても、内にこれに応ずる先在的性質がなかったならば意識現象を生ずることはできまい。いかに外より培養するも、種子に発生の力がなかったならば植物が発生せぬと同様である。固もとより反対に種子のみあっても植物は発生せぬということもできる。要するにこの双方とも一方を見て他方を忘れたものである。真実在の活動では唯一の者の自発自展である、内外能受の別はこれを説明するために思惟に由って構成したものである。
凡ての意識現象を同一の形式に由って成立すると考えるのはさほどむずかしいことでもないと信ずるが、更に一歩を進んで、我々が通常外界の現象といっている自然界の出来事をも、同一の形式の下に入れようとするのは頗すこぶる難事と思われるかも知れない。しかし前にいったように、意識を離れたる純粋物体界という如き者は抽象的概念である、真実在は意識現象の外にない、直接経験の真実在はいつも同一の形式によって成立するということができる。
普通には固定せる物体なる者が事実として存在するように思うている。しかし実地における事実はいつでも出来事である。希臘ギリシャの哲学者ヘラクレイトスが「万物は流転し何物も止まることなし」Alles fliesst und nichts hat Bestand. といったように、実在は流転して暫くも留まることなき出来事の連続である。
我々が外界における客観的世界というものも、吾人の意識現象の外になく、やはり或一種の統一作用に由って統一せられた者である。ただこの現象が普遍的である時即ち個人の小なる意識以上の統一を保つ時、我々より独立せる客観的世界と見るのである。たとえばここに一のランプが見える、これが自分のみに見えるならば、或は主観的幻覚とでも思うであろう。ただ各人が同じくこれを認むるに由りて客観的事実となる。客観的独立の世界というのはこの普遍的性質より起るのである。